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母親の居場所を共有することが大事。子どもの出生をきっかけに施設を設立 
【京都府】大城加代さん

“障がい受容”とは障がいを受け止め、自分の中で向き合い、そして納得していくプロセスである。
一言で言えば、簡単だが、障がい受容という言葉の背景には、葛藤、悲しみ、慈しみ、多くの人間の感情が渦巻いているのだ。

今回、私は、脳性まひの子どもを持つ親に対し、子どもの障がいが受け入れられているか否か、それぞれの家族が直面した“障がい受容”に関し、母親たちに話を聞いた。

21週目で医者から告げられた障がいの疑惑。出産までの記憶がない

「ちょうど5ヶ月目ぐらい、21週目のときですね。いつもと変わりなく検診へ行きました。ちょうど、男の子女の子かどちらか判る時期だったのでドキドキしながら検診へいったのを覚えています。それまで順調だったのですが、突然、先生の表情が変わり、エコーから胎児の左右の脳の大きさが違う・・・脳に障がいがでるかもしれないといわれたのです。どういうことが全く理解できずに頭の中が真っ白なりました。そんな現実を受け入れられない!私の人生もう終わりという気持ちにまでなり、突き落とされたような気持ちになりました。それから、先生が大切な話をしますので、翌週、ご主人と一緒に来てください呼んできてくださいと言われました。翌週になると22週が過ぎてしまいました」

そう話すのは、現在、小学校2年生の莉子さんの母親である大城加代さん(46歳)(仮)だ。

現在、日本の法律では、母体保護法によって、中絶が認められるには22週まで。中絶は、妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの、という法のもと、合法化されているのだ。

「全く詳しい知識もないなか、考えることもできない状況でした。、でも、そのとき、仮に22週を過ぎていなかったらどうしてたかって言われても、答えはわかりませんが。当時は、22週が過ぎてしまい、受け入れるも受け入れられないも、受け入れざるを得なかった状況でした」

水頭症と診断された莉子ちゃん。水頭症とは、脳脊髄液(脳内液)の流れが妨げられ、脳内に蓄積されることによって起こる病気だ。何か足らの原因で脳内液の流れが妨げられると、脳室内の圧力が上昇し、脳や神経にダメージを与えることがあるのだ。

なすべもなく、時だけが無情に過ぎていった。水頭症によって、頭囲が大きくなり、その影響でお腹が日に日に大きくなっていった。

「何もかも受け入れられないなか、胎児のおなかの中での異変は日に日に増していきました。頭だけがどんどん大きくなっていって、お腹は大きくはっていき、周りには、お腹が大きくなったね、もうすぐだねって言われて、本当は違うのに……。でも、産まれてくるまではどうなるか分からない、1%もない望みをかけながら、嘘であって欲しいとずっと思っていました」

加代さんは、莉子さんを35週で出産するまで、不安に苛まれ、家で泣き続ける日々だったという。

POST3 母親の居場所を共有することが大事。子どもの出生をきっかけに施設を立ち上げた 京都府 大城加代(46歳)

子どものために保育園、デイサービス、訪問看護を夫とともに開設。

「頭が大きいから、産まれたときは4キロもあったのです。産まれた翌日には、頭の水を抜くためにシャント手術をしたのですが、うまくいかなくて。その後、2回入れ替え手術をしました」

シャント手術とは、脳内に貯まった脳脊髄液を抜く管を埋め込む手術だ。

NICUで口からミルクを飲めるようになったため、自宅に帰った莉子ちゃんと加代さん。そこで待ち受けていたのは、孤独の日々だった。

「実家も近かったので、母親はきてくれていましたが、しんどかったですよね。産後、周りの方から、『子どもさん元気?』、『大きくならはったやろうねぇ』と、聞かれることが辛かったですね。NICUから出てから、家でどうやって過ごせばよいのか、不安で仕方ありませんでした」

どの母親もそうだが、NICUで障がい告知され、脳性まひとはどういったものか、また、障がいへの理解、福祉サービスをはじめとする支援体制などの知識を得られぬまま、そして、“障がい受容”ができぬまま、社会へ放り出される。この親や家族への支援は、今だに未整備のままであり、社会の課題である。

「仕事をしていたので、子供をみてもらえる保育園をみつけなくては、という思いで地域の保育園をいくつか見学しました。しかし、この子が安心して過ごせる保育園がなく、不安でいっぱいでした」

そこで、加代さんは一念発起する。2020年4月に夫婦で小規模保育園を立ち上げたのだ。

「私と同じような悩みを抱えたお父さんお母さんたちがいる。お父さんお母さんが安心して子供を預けられる保育園がないなら作ろう!と。当時、医療的ケアがある子どもが優先して通える保育園が数少なく、注目していただけました。おかげさまで、今では、障がいがあるお子さんと、それ以外のお子さんが半数ずついらっしゃいます」

その後、加代さんは放課後デイサービス、そして、訪問看護を設立。いまでは3事業所を運営している。

「親の休息のための“レスパイト”も必要との想いで子どもを預けられる場所も作りましたが、逆に私が忙しくなっているのが現実です(笑)。また、いろいろ我慢させている上の子のこともしっかりみてあげたいので、毎日フル回転で動いています」

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障がいがある子どもを育ててるからこそ必要な“居場所”。そして、不足する行政の支援

加代さんは、障がいがある子どもを育てる母親の“居場所”の必要さを訴える。

「利用してもらうことも大事ですが、その場に来てもらって気軽に見学だけでもいいです、人に話すことの重要性ってとても高いと思っています。NICUから自宅に、帰ってきたときに、お母さんが本当につらい思いをすることを自分が一番理解してるので、そういったお母さん方の支援ができたらなって思います」

加代さんに改めて、今回のテーマである“障がい受容”について話を聞いた。

「今でも実際に受け入れられないというか、受け入れたくないと思う自分がいて、健康に産んであげられてたらもっと人生も変わったし、家族や取り巻く環境をもって変わっていたと思います。

でも、今はニコニコと笑顔をみせてくれて、天使のようで、この子がいない生活が考えられない状況です。受け入れる、受け入れられないの前に、この子が無事に育っていくためには、親としてどうしてあげたら良いかを考えることが先行して、頭の中がいっぱいな日々を送っている状況です」

そして、社会に対して、加代さんはこう考える。

「障がい児を育てるお母さん、お父さんたちは疲れています。私自身もそうです。痙攣が起こると、救急車に乗って、即入院・・・。いつもの日常生活が送れなくなり、毎月入院があった時は精神的にしんどかったです。また、自分が体調を崩した時でも寝ていられず、子供の介助をしないといけない時は本当に辛いです」

出産で肉体的に疲弊し、そして、障がい告知で精神的に追い打ちをかけられ、不安と戦いながらの障がい児育児。

「保育園を運営しておりますが、NICUから出られて、すぐに保育園に見学へこられたお母さんやお父さんには、精神的な不安と焦りと疲れがみえます。自分の子供を預かってくれる、みてもらえる場所はないのではないかと。そういった方たちには「そんなことはなく、必ず社会が助けてくれます」と伝えています。その情報さえキャッチできず、社会に出さされてしまう、その点には疑問を感じるので、母親やその家族への支援新しい制度、仕組みが作られることを望んでいます」

これが障がい児育児においての現状なのだ。国は“産後ケア”に力を入れているが、まだまだ当事者の自助によって支援が行われているのだ。

最後に加代さんは、莉子さんの存在をこう口にする。

「障がいがあるからこそ、たくさんの人に関わっていただき、育ててくださっているような気がします。うちの子のことを理解していただき、みてくださる方が一人でも多くいてくださると、安心しますね。

同じ境遇のお母さんたちと出会え、しんどい、つらい話ばかりですが(笑)、その話も理解しあえて、気持ちを共有できていることに救われています。この先も、お母さんたちが笑って過ごせるように、子どもたちが安心して過ごせる場所を作っていけたらいいなと思っています」

子どもが障がい告知をされ、どん底を味わった“戦友”同士だからこそ、理解しあえる、支え合える“パワー”があるのではないだろうか。大代さんの取り組みが、社会に広がることで、多くの母親とその家族が救われるはずだ。

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