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わが子の「生きようとする」強い力が、めっちゃ楽しいと言える毎日へとつないでくれた【大阪府】新井さん

“障がい受容”とは障がいを受け止め、自分の中で向き合い、そして納得していくプロセスである。一言で言えば、簡単だが、障がい受容という言葉の背景には、葛藤、悲しみ、慈しみ、多くの人間の感情が渦巻いているのだ。脳性まひの子どもを持つ親に対し、子どもの障がいが受け入れられているか否か、それぞれの家族が直面した“障がい受容”に関し、母親たちに話を聞いた。

21週と5日で破水し、迫られた重い決断

新井さんの長男、りんどう君は小学生になった。脳性まひの障がいがあるが、インクルーシブ教育が進んでいる地域ということもあり、支援級に在籍しつつ同級生と一緒の教室で学んでいる。療育園から地域の保育園に行き、地域の小学校へと入学。友達と過ごす中で出来ることが増えていった。子ども同士の学び合いの力はすごい、と新井さんは言う。そんな新井さん親子の出産は壮絶なものだった。

(りんどうくんの歩みを紹介する動画)

新井さんは、不妊治療の末に体外受精で1人目のお子さんを授かり、少しだけ早産で出産した。その経験もあって、2人目のりんどう君が生まれるときには早産を予防する手術を受け、妊婦健診も短い間隔で受診し、とにかく慎重に過ごしていた。それでも早く生まれてしまう可能性があるとわかり、妊娠13週目で管理入院することに。ところが21週と5日で破水してしまった。日本の産科では、22週を超えていれば蘇生処置をすることができるが、まだ21週と5日の時点で生まれてきたら流産になる。あと1日耐えることができれば、蘇生処置ができるが、赤ちゃんがまだ小さすぎて、処置に耐えられず亡くなってしまうことも考えなければいけなかった。

「それやったら蘇生処置をしないで、生まれた時にお母さんとお父さんの胸の中に抱いてあげて見送るっていうこともありますけど、どうしますかって言われたんですよ。で、夫と何度も話し合ったんですけど、そんなこと決められなくて。」

NICUの先生を病室に呼び、同じ体重で生まれた子どもに病気や障がいがある確率をデータで聞いた。様々なことが頭をよぎり悩みに悩み抜いた新井さん夫婦は、今回は蘇生処置をしないことに決めた。決めたとはいえ、新井さんの心は吊り橋の上のように揺れ続け苦しかったという。しかし、まだりんどう君は生まれてこなかった。

破水から6週間後の帝王切開で残った脳のダメージ

「破水しちゃってるから、赤ちゃんと外の世界っていうのが、繋がってる状態。ちょっとでも菌が入ったら赤ちゃんにまわってしまうんです。だから抗生剤を打ち続けて、お風呂も入れないし、ご飯も寝たままで食べて、私はオムツ生活でした。」

そして、りんどう君が生まれたのは、そこからなんと6週間後のことだった。新井さんは熱を出した。恐れていた菌が体内に入ったらしく、緊急の帝王切開に。その病院でも過去にない、破水から最長期間を経ての出産だった。病院側も未知の長さで、それだけの期間を赤ちゃんが羊水を飲まずにお母さんのお腹の中にいたら、臓器の発育などもどうなるのかわからないと言われたという。

「6週間も頑張ってんから、赤ちゃんは元気になるって信じ込んでいて、赤ちゃん大丈夫ですか?って先生にお腹切られながら聞いたら「今頑張ってるからね、お母さんも頑張ろうね」って言われたんですよ。あ、アカンねんやって。なんかその時に思っちゃって。」

そこから麻酔で意識を失った新井さんがりんどう君に会ったのは翌日だった。保育器のなかに、27週と5日で生まれた、1000gの小さなりんどう君が寝ていた。そして、3日目には主治医に呼ばれて障がいの可能性を告げられた。

「脳の中で出血を起こしていて。出血のグレードが1から4まであるんやけど、 1と2ぐらいの出血やったら、将来何も起こらへん可能性もあります。3以上なら必ず何か障がいが出る出血の大きさなんですって言われて。」

りんどう君は右の脳がグレード4、左の脳がグレード3の出血を起こしていた。

「必ず何かしらの障がいは出るだろうけど、ただまだ赤ちゃんの脳は可能性が無限大やから、どこにどんな障がいが出るかは今の時点で断言は出来ない。今わかる事は必ず運動障害は出るだろうと思います。と言われて、え???ってなってその場で泣き崩れました。」

水頭症になっても、奇跡を起こした「生きる」力

新井さん自身の体にもダメージが大きく、1ヶ月の入院が必要だった。その最中も、りんどう君の様子が気になるが、管につながれた我が子を見ても何もしてやれないことがもどかしかった。治療を続けるのが本当に良い選択なのか葛藤し始めた頃、今度はりんどう君の脳に血が溜まり水頭症の症状が出てきた。処置が不可欠だった。しかし、体重が軽すぎて麻酔も使えず、MRIも撮れない。手術するために体重の増加を待つ他なかった。新井さんは難しい判断を迫られ葛藤はどんどん増していった。

「水頭症の影響で管から出てくる髄液が血で赤いんです。ただでさえ脳にダメージを負っているのに、さらに手術が必要になるなんてこの子どうなるんだろう?って、もう何も考えられなかったです。」

葛藤を抱えたまま、手術の段取りや、同意書のサインなど、手術が出来る体重になる日に備えてすべての準備を終えて待った。ようやく手術日が決まったそのとき、奇跡が起きた。水頭症が治ったのだ。

「そのとき、りんどうは、もしかしたらめちゃくちゃ生命力が強い子なんかもしれへんって思ったんですよ。生きたいっていう力が働いているんかなって」

「楽しいことめっちゃある」同級生との再会がくれた希望

そしてもう1つ。ある「再会」が新井さんを救ってくれた。一人目の子どもを出産した病院で中学の同級生と再会していた新井さん。その同級生のお子さんには先天性の障がいがあったそうだ。そしてなんと、りんどう君の出産と同じ病院でもその同級生と3年ぶりに再会したのだった。その同級生は、こんな言葉で寄り添ってくれた。

『私も毎日泣いてた。だから気持ちはすごいわかるよ。うちの子は3歳になったけど、やっぱり障がいが重くて、いろんなケアが必要な子で・・・でもなー、子どもは可愛くて可愛くてしょうがないし、楽しくて楽しくてしょうがないで。楽しいこといっぱいあるから、今は私の言葉なんて信じられへんと思うけど、その気持ちだって痛いほどわかるけど、でも嘘やと思って信じてみてね。』

その再会をきっかけに、新井さんは少しずつ前を向いていけるようになったという。振り返ってみると本当にその通りだった。

「退院してきてから、やっぱり自分で抱いて育てたらそれはもう可愛いです。子どもの脳は吸収力がすごいから、いろんな人に会って、いろんな音を聞いて、いろんな経験をさせてあげようと思って、赤ちゃんやのに、いろんなとこ連れてって、お姉ちゃんの保育園にも毎日連れてって、園の子に抱いてもらったり、子どもの声いっぱい聞かせたりしました。りんどうがつないでくれた人の縁がたくさん生まれました。」

リハビリの親子入院で入院生活をおくるときも、リハビリを頑張りつつ、めいっぱい楽しんで過ごしていた。その明るさが自然と周囲にも伝播して、希望を持った親御さんも少なくない。新井さんとりんどうくんの周りには笑いがあふれている。そしていま、同じような境遇の親御さんには「これから楽しいこといっぱい、いっぱいあるよ」と言い続けている。

バリアフリー駐車場を「豊中モデル」として広めたい

現在、新井さんはバリアフリーの提言にも取り組んでいる。日本の駐車場の多くは昔のセダンの車幅で作られていて、トランクやハッチを開けるスペースが狭い。障がい者用駐車場もスライドドア対応で横幅が広い場合はあるが、後方部は狭い。そのため、ワゴン車等からスロープを出して車椅子を降ろそうとするとスペースが足りないのだ。そこで、新井さんが住んでいる豊中市にかけあって、車の後ろからスロープをだしてそのまま近接した歩道に下りられる駐車場を「豊中モデル」として実現したのだ。

「車椅子駐車場って出入り口に一番近いところだから、前から乗り入れて停めて、ハッチを上げて車椅子降ろしていたら他の車が通りたい時に邪魔になります。焦って乗り降りしないといけないし、危険と手間が大きかったんです」

この方法をバリアフリー駐車場として全国に広めていければ助かる人が多いことだろう。いち市民の小さな提言でも社会を変えられることを実感したという新井さん。これからも出来る範囲で気づいたことを伝えていきたいと思っている。

取材・執筆 東善仁
写真提供 新井さん

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