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重症心身障がい児ときょうだい児を育てる葛藤。「愛してもらっていいんだ」と思えるまで【岐阜県】茅野美咲さん

“障がい受容”とは障がいを受け止め、自分の中で向き合い、そして納得していくプロセスである。
一言で言えば、簡単だが、障がい受容という言葉の背景には、葛藤、悲しみ、慈しみ、多くの人間の感情が渦巻いているのだ。

今回、私は、脳性まひの子どもを持つ親に対し、子どもの障がいが受け入れられているか否か、それぞれの家族が直面した“障がい受容”に関し、母親たちに話を聞いた。

冬になると3分に1回はたん吸引することもある

茅野美咲さん(仮名)は11歳の長男と重症心身障がい児である7歳のかえで君を育てる母親だ。かえで君は5月~10月半ばの間はたんが詰まることがなく、吸引器を全く使わないのに、冬になると分泌物が急に増え、頻回な吸引が必要になってしまう。

 「うちは冬になると、たん吸引がめちゃくちゃ頻回なんです。メイクしようと下地を塗ったら吸引して手を洗って。ファンデを塗ったら吸引して手を洗って。化粧の合間に、何回吸引するのかって思うほど何をしていても全部中断。ひどい時には3分に1回。トイレに行って戻ってきたら子どもが泡をふいていて、たんで溺れてる!みたいになることもあって…」

そうなると、学校や放課後デイサービスなどにかえで君を預けることが難しくなってくるのだ。

「前提として、かえでのような重症心身障がい児を快く預かってくれる放課後デイサービスの存在にはとても助けられていて、この施設や職員さんがいてくれるおかげで仕事ができたり、買い物に行けたり、長男との時間が取れているので本当に感謝しています。かえでもデイが大好きで喜んで行ってくれるし、安心して預けられる場所があるというのは、家族にとってとても大きいです。

ただ、ケアが頻回になってくると放課後等デイサービスでは『ちょっと苦しそうです』って言われて自宅に帰ってくるんです。『看護師が1人かえで君につきっきりになって、他の子を見られなくなる』とか、『いつもより声が少なくて元気がない』とか理由を伝えられて、発熱もなく、他の子へ感染の心配がなくても事業所から『お迎え』の連絡が来ます。苦しい時は帰ってくるし、預けられない。そういう時こそデイに預けて、看護師さんに少しでも長くたん吸引を代わってほしいと思うこともあるけど、中々そういうわけにもいかない」

茅野さん親子

重症心身障がい児に必要なケアはたん吸引だけではない。かえで君の食事はミキサーにかけ粒がないように加工したペースト食なので、毎食ペースト加工が必要だ。食事の介助、薬の管理、栄養剤の注入、排泄や着替え、お風呂や移動など身の回りのことすべてに介助が必要なので、やらなければならないことが山程ある。

 自宅でのケアの助けとなるのが訪問看護だ。

「うちは2週間に1回、1時間の訪問看護を利用しています。訪看さんにはかえでのNICU退院直後からお世話になっていて、とても信頼しています。現在はかえでの健康観察とアドバイスをもらったり、わたしの話し相手になってもらうことがメインで、お風呂とか吸引とか、食事介助などはしていただいていません」

短時間の訪問看護が「わたしの心配事を聞いてもらう心の安定剤」ではあるものの、茅野さんを悩ますのは、利用を増やしたい反面、利用を増やすと在宅時間が長くなってしまうことだ。

「私はどちらかというとかえでを外に連れ出したい。でも訪問看護を増やすとかえでは学校やデイを遅刻早退したり休んだりすることになります。やっぱりどちらかしかできないとなると、活動的な学校やデイを選んでしまう。ただそうなると、日によってはかえでが家に帰ってきてしまって私と二人きりになることもあります。でも外に連れ出すことを諦めきれなくて、自分で自分を大変にしてしまっている面がある。何を選ぶことがかえでにとっていいのか、いつも考えています」

デイや学校は、子どもが元気な時にしか行けない。もちろん病気の時は休む必要があるが、健常児と違うのは、ケアが多くて不安定な状態が数ヶ月単位で続くことだ。しんどい時こそ預かってほしいのに、「何かあった時の責任が取れない」と言われると、向こうの立場もあるので従う他ない。発達障がい児向けの事業所が増えていく一方、重症心身障がい児を対象とする事業所は少ないので、長いお付き合いをしていくためにあまり強く言えない現状もある。

「わたしはもうこの状況に慣れて、当たり前になっているから、疑問に思わないところもあるけど。でも、夜もまともに眠れず日中もケアに追われていると、”誰か代わって”と悲鳴を上げたくなる時もある。状態が悪化して入院になったとしても、結局24時間付き添い生活なので、ほとんど状況は変わらない。自分の子だからやるしかないんですけど。」と茅野さんは訴える。

茅野さん親子

「産むか産まないか、5分で決めてください」

「自分でかえでを産むことを選んだっていうのが、やっぱり自分の中であって。どうしても、産んだという責任がすごくある」

母親頼りの重症心身障がい児のケア。茅野さんが抱く自責の念は、母親を孤立させてしまう源でもある。茅野さんの場合、長男を出産する際も23週で緊急入院になり、1ヶ月の入院生活の末、28週で帝王切開となった。

「前の検診のときは異常なしだったのに、23週の検診で産科医の顔が急激に険しくなって、『今すぐ総合病院に行きなさい。赤ちゃんが危ない』と言われた。羊水が急に減ってしまっていたんです。入院してお腹に針を刺し、羊水を追加し続けましたが、胎児の心拍が下がり産むしかなくなってしまった」

茅野さんの長男は965gの超低出生体重児で産まれた。早産のためPT、OT、STと、訓練や療育の毎日。そして、茅野さんはかえで君を身ごもった。

「かえでの時はもう怖くて、胎児の心拍数を計る機械を買いました。一日に何度も心拍数をチェックしていました。『23週になったらまた絶対なにかが起こる』と思い、病院に頼み込んで22週で入院させてもらいました。その時は赤ちゃんも健康でなんともなかったのに、悪い予感が当たり、23週に入ると急に心拍が落ちて…へその緒がぐるぐる捻れて首に巻き付いてしまい、酸素が届かない状態でした。」

「今すぐ産むか、このまま自然に任せてお空に返すか、どちらか選んでください」と茅野さんは医師に迫られた。しかも「今産むことを選んだ場合、赤ちゃんに大きな障がいが残る可能性が大きい。家族の暮らしも、お兄ちゃんの生活も今と180度変わる。それでも産むのかどうか、5分で決めてください」と言われ、夫に電話をかけた。

「夫は『諦めよう』って。『もう無理だから。そんな子を育てる自信がない、上の子もかわいそうだし。俺も覚悟がない』と。でもわたし、どうしても生きている子に一目会いたかった。その後のことは考えられなかった。お腹の中で死んでしまうことをわかって、そのままにできなかったんです。無理って…」

「どういう結果になっても自分が責任持つから産ませてほしい」と懇願する茅野さんに夫は同意。455gの超低出生体重児であるかえで君が生まれた。

“72時間以内に脳出血なし”という第一段階のハードルは超えたものの、かえで君は腸閉塞に。生後12日目、小腸穿孔という小腸の一部が破れて壊死した部分を切除する大きな手術を受け、一時危篤に陥った。脳に障がいが残った。その後もいくつかの手術を受け、半年間NICUに入った。

「最初にこの子を産むと決めたのはわたし。その後も何度か子どもに生死の危機が訪れる度に、生かす方を選んだのもわたしです。手術の同意書にサインしなければ亡くなるっていう機会もあったけど、サインをしました。危ない状態になったときに救急車も呼びました。だからわたしに責任がある」

茅野さんは全てを背負い込み、何もかも自分でやろうとした。

「最初、夫に頼ることもできなくて。夫は反対したのに、自分のわがままで産んで生活を大変にしたのだから、迷惑を掛けてはダメだと思った。ともかくお兄ちゃん(長男)の今の生活も、家族の生活も何もかもかえでが産まれる前のように維持して、この子のお世話は私が全部やらなければいけないと思ったんです」

NICU退院後の生活やリハビリ先なども一人で決めた茅野さんは殻に閉じこもり、親に頼ることもほとんどなかった。

茅野さん親子

児童発達支援センターへ~『愛してもらってもいいんだ』

転機となったのが児童発達支援センターへの入園だ。

「NICUを出て退院してからは、お兄ちゃんの児童発達支援センターでの療育にかえでも連れて通っていました。その時の担任が、前年まで肢体不自由児のクラスを担当していて、『かえで君、入ってみたら』って声をかけてくれて。でも、ずっと断っていたんです。当時のわたしは肢体不自由児のクラスに入るのは“未来を諦めること”みたいに思ってて。そこに入ったらもう”普通の社会”には戻れない…そう思っていたんです」

長男は1歳まで寝たきりだったものの、後に歩けるようになっただけに、1歳前のかえで君を肢体不自由児のクラスに入れることに茅野さんは抵抗があった。

「このクラスに入るってことは、『もう歩けない』と決めるような気がして。かえでの障がいを自分でも正面から受け止められていなかった。かえではお兄ちゃんとは違う、ここに通う必要があることは分かっていたけど、認められませんでした。それに、真っ暗闇にいるような気持ちだったので、他人に干渉されたくない部分もあった」

ところが、実際に入ってみると、

「先生たちがみんな『よく来たね』『可愛い、可愛い』って言ってくれる。先輩のお母さんたちがすごく良い顔して、ニコニコってみんな笑顔で会話をしているのでびっくりしました。『誰も暗くないし誰も泣いていない』と思って。きっとみんなわたしのように、塞ぎ込んでいると思っていたから」

母親たちが障がいについて笑顔で話し、活動しているのを見て、茅野さんの心は次第に溶けていった。

「あれ。思ってたのと違う。それまで自分の考え方が『アナと雪の女王』のエルサみたいに固くなっていたのが柔らかくなって。そこからふわっと、人付き合いも少しずつ復活して。他のお母さんが自分の子を受け入れているのを見て、私も受け入れていいんだって。障がいがあっても楽しくすごしていいんだって。」

児童発達支援センターの先生たちの助けを受けるうち、「人に頼れない」という茅野さんの思いは変化。今年初めて、かえで君を自分の親に長時間預けることができた。

「私、拒否されるのが怖かったんですよね。運動会や家族交流会にも『動かない子を見ても、お母さんたちもつまらないよね』って勝手に思って卑屈になって、『いかない』とか『退屈だった』と言われるのが怖くて祖父母を呼ばなかったんです。でも、年長の時、最後の運動会に思い切って両家の祖父母を呼びました。結果みんな大盛りあがりで、かえでも嬉しそうでした。自分の中で少しずつ心が溶けた。悲観的だったのが、ちょっとずつ、ちょっとずつ、『一人で抱えなくてもいいのかな、愛してもらってもいいのかな』って思えるようになったんです」

茅野さん親子

家族の理解~”親なき後”のケアは

茅野さんにはかえで君と2カ月違いの健常児の甥がいる。初節句の時、大きくなっている甥に比べて、退院直後のかえで君は、まだ新生児のような状態だった。

「親戚とのシェアは徐々にですよね。将来どうなるのか、どこまでかえでができるようになるのかわたしもわからなかったから。体だけが大きくなっていくけど、かえでは赤ちゃんのまま。盆正月に実家に帰る度、年相応に発達している甥っ子との差はだんだんと大きくなっていきました。」

正月、両家に行く度に「発達していかない様子は見られているので。だんだん、かえではこういう子なんだねというのは、あえて言わなくても伝わったかな」と振り返る。

新生児医療が進歩し、さらに胎児医療まで模索されている今、”医療的ケア児”の数は右肩上がりで2万人を超える。一方で、その後の受け皿はまだまだ不十分なままだ。

「20年前だったら、うちの子はこの世にいなかった。生きていてくれて嬉しいと思う反面、これでよかったのかな、親のエゴじゃないのかな、という自問はずっとしてます。生かすことが医療現場の功績になるじゃないですか。でも、その後ずっとその医師が面倒を見てくれるかといったらそうではない。本人も家族もずっと続く人生があるから、手放しには喜べない。」

“親なき後”の不安は、茅野さんにとっても避けては通れない問題だ。

「わたしが死んだ後に何があるかなんてわからない。お兄ちゃんに迷惑がかかるかもしれない。完璧に準備しても、急にその施設が潰れるかもしれないじゃないですか」

かえで君が入院すると短くて2週間、長いと1カ月以上の付き添いが必要になり、長男の世話ができなくなることも茅野さんを悩ます。

「お兄ちゃんにも支援がいるのに、それができなくなる。さみしい思いをさせてしまう。かえでのことは意識していなくてもどうしても手をかけざるを得ないから、意識的にお兄ちゃんを優先するようにしています。だから、休みの日はお兄ちゃんのやりたいことを一緒にやって、テレビもお兄ちゃんの見たい番組を見る。遊びに行くのも全部お兄ちゃんの行きたいところです。お兄ちゃんに『かえでがいるからできない』という思いをさせたくないので、どんなところにも行きます。」

医療や福祉が時代とともに進歩したり、向上することで救われることはとても多い。茅野さんも、「悩みや葛藤はあるけれど、色々な支援も受けられて感謝していますし、家族全員楽しく暮らしています」と語る。それでもなお、当事者家族にとって、どうしようもない「もどかしさ」というものは残るものだし、なかなか声に出しにくいところがあるのも実際だ。その「もどかしさ」を見過ごさず、少しでも何とかしようと社会全体で取り組むことが、誰とってもより暮らしやすい社会をつくることにつながるのではないだろうか。

 

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