“障がい受容”とは障がいを受け止め、自分の中で向き合い、そして納得していくプロセスである。
一言で言えば、簡単だが、障がい受容という言葉の背景には、葛藤、悲しみ、慈しみ、多くの人間の感情が渦巻いているのだ。
今回、私は、脳性まひの子どもを持つ親に対し、子どもの障がいが受け入れられているか否か、それぞれの家族が直面した“障がい受容”に関し、母親たちに話を聞いた。
障がい受容という言葉の意味とは?私は“今”を生きるだけ
「障がい受容ができているんですかね?」
今回のインタビューの趣旨を話すと、野上裕子さん(38歳)(仮)は、そうつぶやいた。
「障がい受容ができているかなんて気にかけてませんでしたね。とりあえず目の前のことに必死なだけでした」
野上さんのお子さん、健太くんが産まれたのは、今から、約9年前。現在、小学校3年生となり、車椅子が必要であるが、知的には大きな遅れはなく、普通学校に通っている。
「就学判定は、支援学校って出たんですよね。でも、最終的には親の判断に任されますから、地元の小学校の校長と面談を重ね、校区の小学校に入学しました今は、支援学級と併用して通っています」
障がいを持つ子どもは、就学前に健太君同様に“就学判定”を受けることが望ましい。行政をはじめ専門機関や専門家がその子にとって支援学校なのか支援級なのか、普通級なのか、どこが適しているのかを判断する手続きだ。しかし、この判定はあくまで行政側が決めた判定なので、最終的には親の判断に任される。
健太君も、当初は支援学校判定だったが、野上さん夫婦の意向で普通学校の支援級に籍を置くことになったのだ。
「脳性まひが原因で、視覚にも影響があり、文字を追いづらく、文章が読みづらい課題もありますが、どうにか頑張って学校の勉強ついていっています。本当は普通学級で過ごせればいいのですが、今の学校では先生が側についてくれないので、筆箱やノートをめくることも難しく、仕方なくといってはなんですが、支援学級で過ごしています。公文のような学習教室にも行かせたかったのですが、車椅子で行けるところがなく、家庭教師の人に来ていただいています。それより大変なのが、学校にはエレベーターがなく、上階に上がるにも、先生が担いで上がっているんです」
野上さんは学校や自治体に対し、エレベーター設置を訴えているが、設置にまではこぎつけないと嘆く。野上さんが校長先生との面談を重ねたというように、障がい児の親は、いろんな場面で“交渉力”が求められる。障がいある子どもを育成するにあたり、保育園、小学校とステージが変わるたびに、行政をはじめとした機関との折衝が必要となるのだ。
「障がい受容できているのか」と、述べた野上さんだったが、彼女がいうように「必死」に健太くんを育成してきたのが、その言葉はなくても伝わってくる。健太君にも会った。脳性まひの影響で言葉を話すことはゆっくりだが、「その言葉の意味はなに? 」と質問してくれたり、冗談を言ってくれたり、お話はとても上手だ。
「どうなるかかわらない」 “脳性まひ”とは思わなかった出生時
「本人も自分の体がこうなんだって言うのは少しずつ理解はしていると思います。まだ小さいですし、今は葛藤を抱くということはないですが、やはり自分がしゃべるのが遅いのがわかっているから、お友達との会話では、聞いて、笑顔でうなずいているだけだったりします。それを見るとちょっとなって思う部分もあります。でも、家庭教師で来てくれている大学生とは、向こうも理解してくれているので、勉強というより、良い話し相手になってくれて、世界を広げてくれています」
今は、前向きに話す野上さんだったが、過去を振り返ると大きく落ち込んだときが2度あったという。
2015年7月。40週で健太君は出生した。
「それまでは全然問題なくって。陣痛がはじまったので、病院へいったんです。破水して、いよいよかって思い装着していたモニターを見たら、心拍が下がっていたんです。そして、羊水も濁っていると言われ、急遽、帝王切開になり、健太はそのままNICUに運ばれていきました」
その後、MRIを撮影。医者から、脳に嚢胞があると告げられたという。
「その際は、脳性まひになるなんて思わなかったですし、私は当時、脳に影響があっても、大丈夫かな、ぐらいにしか考えてなかったですね。それに、退院時も『どうなるかわからない』と医者に言われていたので。脳性まひというより、呼吸を補助する酸素の機械とともに帰ってきたので、そちらのほうが大丈夫かな、元気に育つかな、という思いが大きかったです」
このときが、野上さんが話す「1度目」の時だった。
NICUに1ヶ月退院後、自宅に戻ってきた野上さんと健太君。呼吸を助ける機器はあるが、見た目は普通の赤ちゃんだった。
職場復帰後に告げられた“脳性まひ”との診断
野上さんは正社員で、育休後は、職場復帰を目指していた。
「1年後には職場復帰しようと思っていました。病院からはどうなるかわからないからって言われたままだったので、まさか当時は脳性まひ、車椅子になるなんて思わなかったので、近くの保育園に行かせてました」
その後、3ヶ月検診、6ヶ月検診とあったものの、すべて「様子見ましょう」で終わらされ、野上さんの疑念は日に日に大きくなっていった。
「それまで出産した病院にも定期的に通っていたのですが、『様子を見ましょう』ばかりで。1歳になったときに、地元のクリニックで予防接種を受けた際に、一度、専門の病院で見てもらったほうがいいと言われ、京都にある聖ヨゼフ医療福祉センターを紹介してもらいました」
そこで、告げられたのが「脳性まひ」という診断だった。これが2度目のショックな出来事だったと話す。
「ショックはショックでしたが、それ以上に驚きで。まさか、脳性まひなんて、言われるとは思っていなかったので。そこで、ある程度、予後を教えてはくれたのですが、脳性まひって言葉は1ミリも頭になかったので、正直、どうしたらいいかわかりませんでした」
そして、勧められたのが3ヶ月に及ぶリハビリを学ぶための親子入院。
当初、野上さんは1年で仕事復帰をする予定だったため、健太君の障がいを告知された際は、すでに仕事復帰をしている状態だった。
会社の理解、そして、障がい児育児における保育園の“洗礼”
「そうくるとは思っていなかったので、どうしようとは思いましたが、悩んでいてても仕方ないので、会社に事情を説明しました。一度復帰しましたが、まだ責任ある仕事を任されてはいなかったので、良かったと言えば良かったのですが。会社が理解をしてくれて、再度、育休を延長させてもらうことにしたのです」
野上さんの会社は理解があったのでよかったが、多くの現場では、障がい児家庭に対する理解は、まだまだ厳しいのが現状だ。
「保育園にも事情を説明しました。当時はまだ赤ちゃんだったので、他の子とそんなに大きく違うことはなかったのですが、認可外の保育園でしたし、加配の問題もありましたので、来年度に向けて保育園選びも再度必要になってきて、いろいろな保育園に電話をかけました」
しかし、返ってきたのは「歩けない子はちょっと…」、「うちの園では…」と厳しい言葉ばかり。
「心がえぐられましたよね。最終的には公立の保育園に入園ができたのですが、あれはほんと、どうにかしてほしい。行政は障がいがある子どもが、どこの保育園に入園できているのを把握しているのだから、教えてくれてもいいじゃないですか」
障がい児の親であれば、みなが口を揃えていうのが、この、親が直接園に確認を取るシステムだ。このやりとりに親が疲弊し、子どもの“障がい受容”をさらに遠のかせていることを、行政はきっちりと把握すべきである。
その後、健太君は公立保育園に無事に就園し、夫や近所に住む義父母の助けもあり、野上さんも時短勤務で職場に復帰した。
その後、前述したように、地域の学校に通い、今は、野上さんが毎朝、学校に送っている。そして、夕方は放課後デイサービスの送迎により家に帰ってくる生活を送っている。
「時短勤務で働いていますが、いつまで、時短で対応できるのか、という不安はありますね。障がい受容というより、受け入れざるを得ない、それでつっ走ってきたところはありますね。今は、とりあえず、できることを、可能性をなるべく多くみつけて、伸ばしてやることですね」
医学的には障がい受容という言葉はあるが、その言葉の捉え方は家庭によって様々であり、かつ、そんな簡単に言葉に落とし込むことが難しい“感情”である。障がい受容の背景には様々な家庭、親子の生きざまが見え隠れするのだ。