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早産から始まった障がい児育児。505gで生まれた娘との16年目の子育て【兵庫県】水野ひろみさん

“障がい受容”とは障がいを受け止め、自分の中で向き合い、そして納得していくプロセスである。
一言で言えば、簡単だが、障がい受容という言葉の背景には、葛藤、悲しみ、慈しみ、多くの人間の感情が渦巻いているのだ。

脳性まひの子どもを持つ親に対し、子どもの障がいが受け入れられているか否か、それぞれの家族が直面した“障がい受容”に関し、母親たちに話を聞いた。

思春期を迎え、体も心も変わっていく

「確かに、あっという間だったなあと思う気持ちもあるけど、本当によく積み重なってきたなあと思います」

16歳になるミサキさんと夫の3人家族で暮らす水野ひろみさんは、この16年間をそう振り返った。ミサキさんには全介助が必要な重度の脳性まひがあり、小学校からは支援学校に通っている。医療的ケアの必要はないため、毎日送迎バスで通学しているそうだ。中学からの3年間は身体面以外でも、特に精神面や認知面が大きく変わる時期。水野さんは今、ミサキさんの成長とどう向き合っているのだろうか。

「うちの場合は女の子なんで、それが小学校の高学年から中学校ぐらいのときに、やっぱりすごく変化が起きて、今ちょうど落ち着いたって感じなんですよ。多分この子の体の状態はこれ以上のことは大きくは望めないかもしれないけれど、精神的な部分は伸ばせるかな?という発見はあったり。コミュニケーションの面では今まで大人のごまかしが効いてたのが、だんだん効かなくなってきて関わりを変えていかないといけないなと思います。思春期になり親の前でしか見せない顔がものすごくはっきりしてきました。卒業してからはいろんな人との関わりが増えてくるので、本人が自分の気持ちを人に伝えるのを親としてどうサポートできるのかを考えています。」

脳の左半分が真っ白だったMRI画像

水野さんは、26週目に早産で出産し、生まれたときの体重はわずか505gだった。5ヶ月間NICUに入院し退院前のMRI検査で、脳性まひのひとつである脳室周囲白質軟化症と診断された。

「私、作業療法士の資格を持っていて、MRIの画像を勉強中に見たことがありました。ダメージのある脳の状態を知っていたんですね。それで先生が退院前の説明をしますと言われてお部屋に入ったときに、MRI画像が目に入って。うちの子の脳の左半分が真っ白になっていて、まだ何の説明もされてないんだけど、何かしらの異常があるとわかり、いきなりもうボロボロ泣いてしまって・・・そのときは、“子どもの脳って今から成長していくからまだわからないですよね”と先生に伝えて気持ちを持ち直したのですが」

退院と同時に我が子の障がいと直面した水野さんだが、それでも最初は、生まれてきてくれたことへの感謝の方が圧倒的に大きく、首のすわりや寝返りに発達の遅れがあってもリハビリを前向きに捉えていたという。気持ちが不安定になってきたのは療育施設から幼稚園や保育園への通園を模索し始めた頃。療育施設に通い、同じような状況の子どもを持つ親との情報交換や交流を持ちながら、子どもの社会性を広げるために近隣の幼稚園との関わりも相談したが、軒並み断られたという。

「もう普通の社会は切り捨てよう、私には障がい児がいるし、誰も受け入れてくれない!みたいな感じですごく閉じこもっちゃって。私が頑張らなきゃ、っていう気持ちあったから余計に」

そんな葛藤のあった2歳の頃、親子で自宅にいたときに、水野さんは、過呼吸を起こした。

自分が過呼吸を起こしたことで、受け入れられた障がい児の育児

「夏だったんですけど、自分の体温がよくわからなくなってエアコンを何度に設定にしたらいいんだろうと思い始めたら急にワーッて冷や汗かき始めて、呼吸が苦しくなってきて、そのタイミングで娘も泣き始めて娘の側にいかなきゃって思うけど手が痺れて・・・その時は救急車を呼びました」

日々、子どもの育児やリハビリに向き合うなか、心と体の負荷が限界にきていた水野さんを救ったのは紹介された乳児院の存在だった。障がいのある子どもの対応にも慣れたスタッフの受け入れ方が心を楽にしてくれた。

「わかった、お母さん、ゆっくりしてきて、っていう淡々とした感じで、ポンて送り出してくれて。え、いいの?何これ?みたいな。その日ちょっとゆっくりして、すごく力が入ってたんやなっていうのに初めて気付けました。変な話ですけど、過呼吸を起こすことで一旦立ち止まることができたんですよ。ある意味、私の障害受容っていうのはそこかもしれないですね」

倒れたことで、子どもとの向き合い方を客観視できるようになったと水野さんは言う。

「こんなにたくさんのタスクを一人でやってはいけない、危険だとすごく思いました」

親が介在しない彼女だけの世界を大切にしてあげたい

最近、ミサキさんの行動が変化してきているという。人を見て態度も変わる。母親と父親でも違ってきたという。好き嫌いもはっきりしてきた。それはミサキさんにとって大きな成長である。反面、ケアする側も対応が複雑になり、難しくなってきた部分もある。

「ミサキのことは私が一番よく知っていると思っていたこともあったんですが、親以外の第三者が関わっていく時期なんだと思います。親の知らない彼女だけの世界を大切にしてあげたい」

ある日、学校での作業について連絡帳に「嫌がって寝たふりをしていました」という内容が書いてあり、そのことを本人に伝えたら露骨に不機嫌な顔になったという。

「ちょっと、うざい親ですよね。そのとき、私が知らないことがあってもいいんだと思ったんですよ。何もかも報告されて親に知られている状況は彼女も本当に嫌だと思います」

ミサキさんが生まれた16年前に比べると、障がい福祉の状況はよくなってきていると水野さんは感じている。親だけが育児を引き受けるのではなく、様々な預け先や利用できるサービスも増えてきた。

「ただ、同じ境遇の親同士がつながれる場というのはまだまだないと思います。私は幸いなことにNICUの近くに1500g以下で生まれた赤ちゃんと保護者のための育児教室の案内があって偶然つながれていたのですが、そうでない親も多いと聞きます。そういう同じ境遇の人と話すだけでずいぶん気持ちが安心するんですけどね」

今、水野さんは、自ら当事者家族同士の対話の場である「ピアサポート」をオンラインで行う活動にも参加して、親同士がつながれる場をつくろうとしている。こうした当事者家族のつながりにも、実は地域格差がある。コロナ禍をへてオンラインでの対話が市民権を得て「普通」になったことで距離的な課題は解決されたが、リアルな対話の場所はこれからの課題のひとつであり続けている。

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