“障がい受容”とは障がいを受け止め、自分の中で向き合い、そして納得していくプロセスである。
一言で言えば、簡単だが、障がい受容という言葉の背景には、葛藤、悲しみ、慈しみ、多くの人間の感情が渦巻いているのだ。
今回、私は、脳性まひの子どもを持つ親に対し、子どもの障がいが受け入れられているか否か、それぞれの家族が直面した“障がい受容”に関し、母親たちに話を聞いた。
突然の出産。出てきたときは肌の色が真っ黒で、医者の表情が変わっていき……
「親や夫が受容できず、『私が育てないと!』そう強く思った出産直後でした」
そう話すのは、今年4歳になる啓太君を育てる大川あやのさん(43歳)(仮)だ。現在、啓太君は、盲学校の幼稚部に通っている。
「受容って“どこまで”っていうのはありますけれど・・・・・・。もちろん、生まれ変わってもこのままでいいかと言われると決してそうではありません。体が不自由じゃないほうが、絶対楽ですしね」
“本音”を包み隠さず話してくれたあやのさん。出生時をこう振り返る。
「もともと、上の子も帝王切開やったんで、37週で計画分娩する予定でした。あまり赤ちゃんもお腹の中で大きくなっていないんですが、主治医は「上の子も小さめやったからね」とあまり気に留めてくれませんでした。36週の検診では異常がありませんでしたが、その翌日になんか、あまり胎動がないなぁと思っていたんです。それで気になって、その日の夕方に、病院に行きました。見てもらったら心臓は動いていて、大丈夫やなってなったんですけど、一応、念のために、モニターをつけようっていうことになったんです」
念のために装着したモニターであったが、胎児の動きが少なく、動かしたりして胎児を起こそうと試みた。そのとき、急激に胎児の心拍が落ちたという。
「先生たちにも焦りが見え、『すぐに出してあげよう』ということになり、瞬く間に点滴がつけられ、手術の準備が始まったんです」
幸い、あやのさんが検診を受けていたのが、総合病院だったため、すぐに手術室に運ばれ、啓太君が取り出された。しかし、啓太君の状態はあまり良くなかったそうだ。
「私は全身麻酔だったので見ていませんが、あとから先生に聞くと、出てきたときは肌の色が真っ黒だったようです。確認したら、赤ちゃんの状態を示す数値も、一番下のアプガー1でした。緊急オペが始まったのが、病院に着いて30分ぐらいのできごとで、さらにその30分後にはもう啓太が産まれていたのです。そのときは、障害が残るなんて思っていなかったから、『早く出してくれてありがとうございます』って感謝の気持ちだけでしたが、先生はわかってたんでしょうね、障がいが残るって。嬉しそうな顔ではありませんでした」
病院への疑心。そして、傷ついた医療従事者の心ない態度
「こういう結果になってしまった、障がいが残ってしまった親御さんなら全員思うと思うのですが、なんであの時って思いますよね。私も、36週の検診のときになんでもっと調べてくれへんかったんやろうって。今でも強く思いますよ。それは。なんかこう怒りというかモヤモヤというか、ね」
悲しみや怒り、そして、将来への不安が入り交じる障がい告知。産後、体だけでも負担が大きい中、そこへ相当な精神的ストレスがかかるのだ。そして、追い打ちをかけるように、全ての病院がそうではないが、病院からは心ない声や態度を取られることも現実にはあるのだ。
「私はそのまま総合病院に入院になり、啓太はNICUにある病院に運ばれていきました。母子の入院先が別々になってしまったんですね。ちょうど、啓太の担当の先生が、NICUのある病院と総合病院を行き来されていて、私のところにも来てくれたので、『啓太どうですか』って聞くじゃないですか、そしたら、看護師がきて『他の病院のことを先生に直接聞くの辞めてもらっていいですか?』って、強い口調で言われて。おまけに、病室がナースステーションから近いところで、仕方ないとは思うんですが、すごい笑い声とか聞こえてきてね……。で、看護師がきて『体調大丈夫ですか?』、『悩んでいることないですか?』って。いや、悩んでないわけないやんっていうね」
その後、NICUに入院していた啓太くんは、すくすくと成長。呼吸を助ける酸素も外れ、哺乳も可能になり、医師からも、“障害”がそこまで重くはないのではないか、という様子がうかがえたというあやのさん。
「見た目は普通の赤ちゃんやったんでね。私もこのまま、何もなく育っていくんちゃうかなって思うぐらいやったんです」
そして退院間際、脳の状態を見るためにMRIを撮影した。
「誰がみても、“おかしいな”と思うくらい、脳の損傷がありましたね。先生の口調も重くなっていて。先生からは『歩けない、話せないと思います。他のお子さんより、何倍もかけてゆっくり成長していきます』って言われましたね。それを聞いて、私もめちゃくちゃ落ち込みましたけれど、夫と、義理のお母さんが中々、受け入れることができなくて。忘れもしないのは、まだ啓太が入院中のときに、お母さんから『施設に入れたほうがいいんじゃないか』って言われたときです。あの言葉を聞いて、私がどうにかしないと守らないとってめっちゃ思いましたね。それがきっかけで気持ちを切り替えたというのでしょうか、障がい受容といわれると、私にとってはそこかもしれません」
家族が受け入れられる“子ども”にするため、あやのさんの生活は始まった
その後自宅に戻り、啓太くんとの生活がスタートした。
そこからあやのさんは、啓太君を家族たちが受け入れられる状態にするために生活を送ることに。
「当時は、この子を幸せにしてあげようとか、生きてくれてて感謝とか、そんな状態やないんです。『この子を認めてほしい』、それだけ。不妊治療して授かった子ですし、卵のときからもう親なわけですよ。でも周囲は私の心配や、上の子の心配はするけれど、啓太の心配は誰もしてくれへん、私だけやんってなって。一番支えてほしかった夫でさえも、自分の人生終わったって思っていたくらいやったから。この子を受け入れてもらえるように、せめて抱っこしてもらえるように、首が据わる状態にしたかったんですよね」
あやのさん以上に、父親のほうが、障がい受容、子どもへの向き合い方に苦労していたそうだ。
「ようやく、啓太が4歳を向かえる歳になって、徐々に受け入れてきましたけれど、最初はかわいいと思っていないことがわかるんですよ。明らかに上の子との対応が違うというか、啓太は反応も乏しいですし、啓太が『理解している』ということを夫がわかっていなかったんですよね。それが徐々にわかるようになってきて。名前を呼ばれたらニコってしたり、返事をするようになってきたんですね。最初は首が据わることを目標に色々やってきましたけれど、それだけやないやんって。この子が、楽しく生きてくれたらそれでいいやんって少しずつ私も思えるようになってきました」
そして、義理のお母さんも徐々に啓太君のことを受け入れていったという。
「お義母さんがある日、突然、『今に感謝しなあかんってことなんよね。家族みんな揃っていられることに感謝やな』って言って。お義母さんも悩んで悩んでそういう結論にいたったと思います。お腹の中で、しんどい状態になって、それでもまだ頑張って生きようとしてたんやって、覚悟してでてきたんやって思うと愛おしさがね、増しますよね。」
そして、最後に、あやさのさんは、今まさに、障がい受容に向き合い、しんどい状況に置かれているお母さんたちにこうメッセージを残してくれた。
「気晴らしに外でてきたらって言われますが、目に入る小さい子どもとか、元気な子ども連れてる家族連れみたら、ね、なんともいえない気分になりましたし。ようやく2年ぐらいかな、外に出られるようになってきたのは。2年が経過して、いろんな機関につながり、支援してくださる方、同じ境遇の親御さんにも出会えたことで、悩みを共有できて、徐々に明るい気持ちで、外に出られるようになってきました。この前もそういったお母さんたちと旅行にいったりして、この子のおかげで繋がれた縁ですね」
多くの葛藤を経て、子どもの障がいと対峙し、徐々に受け入れ、障がいのある我が子との生活が“普通”になってゆく。その母親、そして家族たちの“受け入れ”のプロセスは周囲の支援のもと、進んでいくのだ。